ハワイが米国のハワイ州となったのは1959年(昭和34年)。
まだ、今から65 年前のことです。「わりと最近なんだ」と感じる人も多いのではないでしょうか。
この年の1月にまず「アラスカ」がアメリカの49番目の州に、そして8月21日に「ハワイ」が50番目の州となりました。
太平洋の真ん中にある孤島ハワイの歴史は、とても長い間外界から閉ざされていたのです。
そして、ハワイのここかしこに歴史の面影がそのまま残されています。
特に、日本から移住した日系人の歴史にふれると、ハワイの魅力を再発見できることでしょう。
歴史がわかると、何気なく過ごしていたワイキキが何倍も楽しめますよ。
ハワイの歴史簡単年表
歴史を学ぶには、現在から過去へさかのぼる方法がおすすめなので、近年から過去へ向かって年表にしました。
「なぜ、この出来事があったのか?」の答えは過去にあるので、理解しながら覚えるには、歴史を遡る方が覚えやすいのです(受検勉強方式)。
◆:日本の出来事
ハワイ州時代
ハワイのホノルルで生まれたバラク・オバマ上院議員が、第44代アメリカ合衆国大統領(民主党)に就任。2017年1月20日まで8年間の2期を務めあげた。
米国で英語以外の公用語を持つ州はハワイ州のみ。
道具や器械を一切使わずに、古代のポリネシア航海術である自然を熟知した航法での航海でした。
ハワイ文化を取り戻そうとする復興運動。学校の授業でもハワイ語学習が盛んになる。
米国のアイゼンハワー大統領(共和党)は、3月18日にハワイをアメリカ合衆国の州として認める新法案に署名。同年8月21日にハワイは正式にアメリカの50番目の州に。
アメリカ合衆国ハワイ準州時代
8月15日に終戦。9月2日に東京湾内に停泊していた戦艦ミズーリの艦上で、日本の降伏文書署名が行われ正式に集結。
◆昭和16年 太平洋戦争勃発
11月11日 79歳で波乱の生涯を閉じる。
◆大正元年
ワイキキの最初のホテル、「モアナホテル」が3月11日にOPEN。「ワイキキのファーストレディ」と呼ばれる。現在のモアナ・サーフライダー・ウェスティン・リゾート&スパ。
6月4日に正式に米国の準州になり、ドールが初代知事に就任。
◆沖縄から初の移民到着
◆明治3年 自由移民の時代へ。ハワイから米本土への再移住の数も増加。
米大統領マッキンリー(共和党)はアジア進出の補給地として、ハワイの有用性を見いだしハワイ併合法案にサイン。イオラニ宮殿ではハワイ国旗が降ろされ、代わって星条旗が掲揚された。ハワイの島々はカメハメハ大王の統一から、約1世紀を経てアメリカ合衆国の領土となった。
ハワイ共和国時代
王政復古を求める武装蜂起が起きる。リリウオカラニ女王の邸宅の庭から武器が発見されたことから、女王は共和国政府により逮捕され、イオラニ宮殿に8ヶ月間幽閉されることに。
◆民間会社による「私的移民」の時代へ
◆日清戦争勃発
ハワイ王国時代
リリウオカラニ女王はハワイアンの復権を求め、新憲法を発布しようとするが阻止される。衝突を避けるため女王は王位を退くことを決断。この時点でハワイ王国は終わりを告げるのだが、米大統領クリーブラント(民主党)は、リリウオカラニ女王に返還されるべきとし「ハワイ共和国」として存続することに。
◆明治26年 移民を保護する名目で巡洋艦「浪速」をホノルルに派遣。
カラカウア王死去、リリウオカラニが王位に。
◆明治22年 大日本帝国憲法発布
砂糖産業の繁栄とともに西欧人の経済界の力が強まり、 その圧力下で王の権力を内閣に分散させられることになる。米国への併合を求める親米派の動きが強くなる。
◆明治18年 ハワイへ官約移民開始
イオラニ宮殿は、ハワイで最初の電灯、屋内配管、電話など、ホワイトハウスやバッキンガム宮殿よりも前に、最新の設備を備えていました。
条約により砂糖産業は爆発的に拡大したが米国側に有利な条項であった。
ルナリロ王が後継者を選ばずに亡くなったため再選挙となる。対立候補だったエマ王妃は英国寄りのため、米国系が大半を占める砂糖業者をはじめとする経済界から嫌われた結果とも云われている。
国王が後継者を指名しなかった場合、王家の血の流れている者の中から議会の選挙で王が選出される。初の選挙で対立候補のカラカウアに勝利したルナリロは高い教育を受け、音楽と文学にも造詣が深く、民主的な思考と態度で「民衆の王」と称賛されていた人気者。
生涯独身で過ごし、後継者も見つからず「カメハメハ大王直系の王の時代」は終わる。
横浜で移民の募集が行われ150名がハワイの砂糖農園へ。自分の意思でハワイに渡った最初の日本人の一団。日本から海外への最初の移民。最初の明治政府は正式に認めておらず仕事の内容説明が正確でなかったり、肉体労働には向かない人も多く、翌年40名ほどが帰国。約100名がハワイに残る。
◆明治元年
経済をささえていた捕鯨から砂糖産業に大きく変換。西欧人が経済界を牛耳る時代へ。
石油発見や事故により捕鯨が急速に減少。
◆日米修好通商条約批准のためにサンフランシスコに向かう日本の使節団を乗せた米海軍のポーハタン号がホノルルに寄港。カメハメハ四世に謁見。その帰路、ホノルル港に寄港し、使節団副使の木村摂津守喜毅、勝海舟等が四世とエマ王妃に改めて謁見。通訳はジョン万次郎。その際、四世より、砂糖農園での労働力確保のために日本からハワイへの移民の要請あり。
カメハメハ四世は公私ともに英国との関係を重視した王。
ハワイアンの人口減少の一途のため、砂糖産業の労働力を外国から確保。中国から初の移民が来島。そして、日本、韓国、フィリピン、ポルトガルから。
米国西海岸への輸出増加が砂糖生産に拍車。南北戦争による南部からの砂糖販売が途絶えたこともあげられる。
外国人の土地所有も認められ、西欧人により砂糖農園の規模は拡大の一途。ハワイ島北部に広く広がるパーカー牧場もこの時代に始まる。現在では全米最大級の牧場に。
捕鯨の基地として栄えたマウイ島のラハイナから移す。
ハワイ王国を初めて見た日本人の一人。
カメハメハ三世ハワイ王国の憲法布告。ハワイ語で作成された。
カメハメハ三世によって設立された王のバンドは、現在も健在のロイヤルハワイアンバンド。今日も、ハワイをはじめ世界中の聴衆を楽しませ続けています。
ニューイングランドから来島した西欧人によって、カウアイ島コロアで砂糖農園がはじまる。砂糖産業が経済力になりはじめる。
西欧人の来島により、もたらされた病気等が原因でハワイアンの人口が減少。
カメハメハ二世の弟カメハメハ三世が10歳で3代目王に。1832年までは義母カアフマヌが摂政を務めた。統治した30年間、ハワイ王国は列強の影響をもろに受け、国の存在すら危うくなることも度々。経済は捕鯨船の補給と販売の中継基地として繁栄。
キリスト教の布教が始まり西欧文化がハワイアンの習慣に大きな影響を。
カプ制度が崩壊し西欧化が進む。
カウアイ島の統治者カウムアリイ王は最後まで独立を維持していたが、カメハメハ勢力との戦争を避けるためハワイ王国への平和的加入を決断。
漂流した安芸の稲若丸の8名が米国の捕鯨船に救助されホノルルに。
カメハメハ大王はマウイ軍に勝利した後、オアフ島のヌウアヌパリで勝利しカウアイ島・ニイハウ島以外の島々を統一。
3回目の太平洋航海でハワイ諸島を発見し「サンドイッチ・アイランド」と名付けた。ハワイは貿易船の補給や越冬地として西欧人が来島するようになる。
当時20歳頃のカメハメハ(大王)はクック船長と親交を深め領地の統治の仕方や大砲の使い方を習得。ヘイアウを造り着々と戦闘の準備を進める。
西欧人来島前のハワイ
ハワイ語は文字を持たなかったため誕生日を証明する記録が無い。生まれた年は残された資料からの推測されたもの。
◆平安時代中期~鎌倉時代
◆古墳時代~飛鳥時代
ハワイ諸島は海底火山の爆発により、永い年月を経て1つずつ島が誕生しました。
カウアイ島が約500万年前、オアフ島が500~300万年前、マウイ島が200~100万年前、ハワイ島が100万年前に誕生したと推測されています。
ハワイの歴史がわかるオススメ映画
日系移民の生活を描いた映画
ピクチャーブライド「Picture Bride」
ハワイ王朝最後の女王の物語
プリンセス・カイウラニ「Princess Kaiurani」
ハワイの歴史まとめ
ハワイ語は文字を持たない文化なので、歴史的文献が乏しく、カメハメハ大王の生まれなど正確なことはわかりません。
ハワイは太平洋の真ん中にあるどこの大陸からも数千キロ離れた遠い島で、完全に独立した地域でした。
ところが、イギリス人のクック船長の来島以降、新しい文明や病原菌、生物、宗教が次々よハワイに入り、ハワイの生態系と文化に大きな影響をもたらしはじめたのです。
ハワイ州はアメリカですが、州旗には米国ではなく英国の国旗が入っていることからも、英国の影響力がわかります。
西欧人が持ち込んだ病気が原因でネイティブハワイアンの人口が激減したことにより、労働力として日本をはじめ各国からの移民がハワイに渡りました。
2014年12月からハワイ州知事を務めているデイビッド・イゲ氏は父方の祖父母は沖縄出身です。
日本移民総計22万人、大正9年にはハワイ人口の約4割が日系人。
今、ハワイで日本人が受け入れられるのは、アロハの精神とともに、日系人がハワイで築いてきてくれた歴史のおかげともいえるのではないでしょうか。