太平洋の真ん中にある離れ小島だったハワイ諸島を発見し、はじめて上陸した外国人はイギリス人のジェームズ・クック。
「クック船長」や「キャプテン・クック」という名前で、どこかで聞いたことがあるのではないでしょうか?
1778年1月、ジェームズ・クックは、カウアイ島のワイメアに上陸しました。
カウアイ島の人々は、海からやってきた森のような大きな船や、自分たちとは違う人々、何もかもが初めてみるもので、最初は怯えていました。無理もありませんね。
西欧人の来島から、ハワイの歴史は大きく変わりはじめます。
ハワイ諸島に上陸した最初のヨーロッパ人
ジェームズ・クックは、イギリス海軍の勅任艦長であり海洋探検家です。
アフリカ、ニュージーランド、タヒチ、南米など主に南半球に到達していました。
3回目の太平洋探検で、はじめて北半球に入りました。
目的は北米大陸の北側に大西洋と太平洋を結ぶ水路が在るか否かの調査でしたが、その途中で偶然ハワイ諸島を発見し、カウアイ島のワイメアに上陸します。
その時の英国海軍大臣の名前「サンドイッチ伯爵」の名前をとり、ハワイ諸島はサンドイッチ諸島と命名されます。
ハワイの人とクックの一行は物々交換を行い、友好的な関係を築いていくようになります。
クックはハワイの人々の顔が、太平洋の遥か彼方のニュージーランドの人々と似ていることに気づき、我々よりも前にこの大海原をポリネシア人はどうやって渡って来たのかと驚きました。
ジェームズ・クックの像の正面にはポキ丼で有名なイシハラマーケットがあります。
クックがマウイ島で出逢った人
しばらく滞在した後、クック一行はアラスカ探索のためにハワイを発ちます。そして11か月後にマウイ島に戻ってきます。
アリイ(首長) であるカラニオプウはクックに会い、自分の身に着けていたアフウラ(ケープ)とマヒオレ(帽子)をクックに贈っています。
そしてカラニオプウの若い甥もクックの船を訪れます。船の中の設備に大変驚き、クックは武器を持っていること、権力があることを確認し、ある野望を抱いたことでしょう。
この甥こそが、後にハワイ諸島を統一した、ハワイ王国初代大王のカメハメハです。
カメハメハ大王は、西欧人の助言や大砲をたくみに利用し、ハワイ諸島を統一して、ハワイ王国がはじまりました。
ハワイ島へ
その後、クック一行は1778年1月、ハワイ島のケアラケア湾に上陸しました。
ハワイ島では、平和と農業の神「ロノ」を祀る収穫祭「マカヒキ」を祝っていた最中の出来事です。
マカヒキの時は、大きな白い布を木と組み合わせて「ロノマクア」というものをつくるのですが、それはまるで船のマストのような形であり、船に乗ってやってきた白い肌のクックは神に見え、ロノの再来と考え歓迎されました。
ケアラキケクアへの帰還
翌月、クック一行はハワイ島を去っていくのですが、嵐に遭遇してマストが折れ、修理のために再び、ケアラケア湾に引き返します。
島民は、ロノの神をイメージするマストが折れたことに不信感を抱き、この時も親切にはもてなされたものの、大歓迎ではありませんでした。
「神が戻ってくるのはおかしくないか?神ではないのじゃないか?」と不信感は高まるばかりです。
島民たちとの間にいざこざが起き、クックの一行が島民を殺害したことから、暴動に発展してしまいました。そして、クックは刺されて命を落としてしまいます。50歳でした。
クックの最後
クックを神聖とみなし、ハワイアンのアリイと同じ伝統的な葬り方で埋葬されたので、英国と争いになることはありませんなかったそうです。
クックの死から約100年後、1874年、亡くなった地にイギリス人によって、クックを偲び碑が建てられました。
» ケアラケクア湾のCaptain James Cook Monument像
クックがハワイにもたらしたもの
ハワイの古代文化は終わりを告げました。
クック一行から動物、食物、釣り針の材料になると喜ばれた鉄など、便利なものが島に入ってきましたが、いいものばかりではありません。
麻疹や梅毒などの疫病も持ち込まれ、外交がなかったハワイアンには免疫力がないために、ハワイアン種族の存続さえも危ぶまれることになったのです。30万人いた人口が数年後には5万人にまで減少してしまいました。
太平洋の真ん中にある中継地点としては理想的な貿易の中心地。
他国との外交もはじまりまり、外の世界に開かれたハワイとなって西洋文明の波に飲み込まれていくのです。
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