2018年はハワイに日本人初の移民「元年者」が到着してから150年。これを記念して最初の日本人移民の歴史、残した遺産や伝統文化についての特別展示がビショップミュージアムで開催されました。
「元年者」とは、明治元年(1868年)に日本からハワイに移住し、海外への扉を開いた最初の日本人約150名です。
ホノルルでも記念大会が開催され、日本からは秋篠宮様と妃殿下がご臨席されました。
元年者とは
「元年者」とはカメハメハ五世の要請に基づき、明治元年(1868年)にハワイに砂糖農園での労働力として日本からハワイへ渡っていった人々のこと。明治元年の『元年』という言葉が使われました。
当時、まだ戊辰戦争の最中、且つ江戸城明け渡しのすぐ後のことなので、明治新政府の許可を得られないままの出航となってしまいました。元年者約150名の中には女性(妻)が6名含まれています。
姉妹友好都市の図
■ハワイの日系人の出身都道府県トップ5
①広島、②山口、③熊本、④沖縄、⑤福岡
ハワイでの生活は、条件と違いもあり過酷な状況でした。2年後の1870年に40名が契約条件の違いを訴え日本へ帰国。残った者たちは農園での差別がよくやく解消した中で、3年契約を全うしました。この時点で明治政府により正式に移民労働者として認められたことになります。
ファミリー・ツリー
3年契約が終わった時点で、ハワイに残った者は約90人。その中の半数は日本に帰国、もしくはアメリカ本土に渡り、残りはそのままハワイで暮らすようになりました。それぞれの人生が展開していきます。
ハワイに残った約50名のほとんどが現地の女性と結婚し、地元社会にとけこみ動向はわかりませんでしたが、数名の足跡だけはわかりました。
マウイ島の砂糖農園で労働の後、ハワイ島に渡った佐藤徳次郎さんの足跡がわかったので、今回ビショップ・ミュージアムで展示を準備するにあたりました。
自分達の系図(ファミリーツリー)を以前から調べていた子孫の1人の協力を得て、徳次郎さんとその妻、ハワイアンのカララ ケリイハナヌイ カメコナとの間に生まれた5男4女の系列から、なんと980名ほどが判明し、徳次郎さんとその妻の家系図が明らかになったのです。
8世として赤ちゃんが2人生まれていることも明らかになりました。その全ての名前は今回のビショップ博物館で特別展示されています。
圧巻!!
上から一世、二世、三世・・・と続き、全員の名前が記載されています。この文字はすべて名前です。150年の時代を経て、佐藤徳次郎さんご夫婦から日系8世まで、980名の名前は圧巻でした。
今回ファミリーツリーを作成したチームスタッフの中には、今までは友達だと思っていた人が実は祖先は同じ佐藤徳次郎さんだったことが発覚した人もいるそうです。
そろばんを持ってハワイに渡った日系人も。
ハワイで手作りの神棚です。
ピクチャーブライド
上の写真の中央は「結婚証明書」です。会ったこともない男女が写真だけのお見合いで、日本から妻となる人をハワイによびました。写真だけを頼りに海を渡り、ハワイに嫁いだ女性達はピクチャーブライドとよばれています。
元年者約150名の中には女性が6名含まれていましたが妻です。独身の女性はいません。
日本人同士の結婚の方が安定した家庭がつくれ、日系人のより良い社会秩序を築く上でも好ましいと考えられていたようで日本から花嫁を呼び寄せたのです。
1924年(大正15年)に労働目的での日本から米国への渡航が禁止されるまでに、ハワイに渡ったピクチャーブライドは2万人に及び、初めて会う夫と共に働いた砂糖農園の生活環境は、それは期待を裏切る苦しいものでした。
その様子を描いた映画が『ピクチャーブライド』です。
売店で買った元年者のパンフレット。
1924年に移民が禁止されるまで、約22万人の日本人がハワイへ渡ったとされています。第二次世界大戦前には、日系人がハワイ州住民の40%近くを占めていました。
元年者に関する記録は多くが失われてしまったそうですが、残されている記録からも元年者の苦労と希望と勇気を感じます。ハワイにはコナ・コーヒーをはじめ、日系人が創り上げたものがいくつもあります。
彼らの努力によって、ハワイの日系移民の歴史、そして今のハワイがあります。
ビショップ・ミュージアムの見どころはこちらの記事を参照ください。