ハワイの砂糖産業は、1835年、西欧人によるカウアイ島コロアでの砂糖キビ栽培に始まります。
砂糖産業の隆盛がなければ日系人の歴史はかわっていたことでしょう。
2016年、ついにマウイ島に残るハワイ最後の砂糖キビ工場も閉鎖されました。
ハワイにはなぜ各国からの移民が多いのか?
ハワイアンにとっては、土地は神様からあずかったもので、誰かのものという所有概念はなく、みんなで使うものでした。
ところが、カメハメハ3世の時代、1848年「グレート・マヘレ」呼ばれる土地の分配を施行しました。土地を所有物・財産とする西欧型の考えが導入されたのです。
まず、島々全体の三分の一の環境の良い土地(クアロアなど)は王の領土として確保し、他を一般人にも分配し、外国人の土地所有も承認されました。
この時代は、アメリカ本土西側から中国に貿易が盛んで、ハワイは途中の給油地。
ハワイで白檀が発見され、白檀は中国で高値で売れるため次々に伐採され、ついには白檀は絶滅してしまいました。また、捕鯨では1年間に500隻の船がハワイに入るほどの勢いでした。
このように他大陸との交流が盛んになってくる一方で、ハワイの現地の人口が減ってしまうのです。
その理由は・・・
1.大陸から持ち込まれた病気が流行る。
2.捕鯨船で出航し、ハワイには帰らない人が出てくる。
3.アメリカ本土のゴールドラッシュに行ってしまう。
外国人に分配した土地は、サトウキビ農園となっていきましたが、上記の通り人口の減少により、肝心の労働力が確保できないのです。
そこで、海外からの労働者を受け入れることになりました。
はじめてハワイに上陸した日本人は?
最古の記録によると、1806年に安芸の「稲若丸」が捕鯨船に救助されてハワイに上陸し、カメハメハ大王に謁見している記録があります。
そして、1838年には富山の運搬船「長者丸」が漂流して救助され、そのときの乗組員の次郎吉によって「番談」という漂流記が残されています。火山が噴火しているイラストやヤシの木など、文章では表現できないようなイラストが残っています。
さらに、1841年(天保12年)に鳥島で米国の捕鯨船「ジョン ハウランド号」に救助され、ホノルルに到着した万次郎(後のジョン万次郎)と続きます。
当時は江戸時代、日本は鎖国中。いずれも自分の意志で渡ったのではなく船で事故に遭い漂流しているところを外国船に助けられた漂流民です。自分たちとは違う初めて見る外国人に驚いたことでしょう。
日本からの移民提案
カメハメハ大王の孫である、カメハメハ4世の時代(1860年)に、日米修好通商条約批准のための日本の使節団を乗せたポーハタン号と共に、サンフランシスコに向かった咸臨丸が復路にホノルルに寄港しました。
ハワイ滞在中に代表団がカメハメハ四世と妻のエマ王妃に謁見し、このときにカメハメハ四世から”日本からの移民”が提案されます。
これが日系移民のきっかけとなりました。
日本から自分の意志で初めて渡った人たち
江戸時代にハワイに渡った人たちは自分の意志で渡ったわけではなく船に助けられた漂流民でしたが、カメハメハ5世の時代、1868年(明治元年)に、日本人労働者150人ほどを乗せたイギリスの船がハワイへと出港しました。
彼らは、明治新政府の許可を待たずに無断でハワイへと出港し、政府から送られた人たちではありません。
パスポートも持たないまま日本人初の集団移民となった彼らは、移住した年号から「元年者(ガンネンモノ)」と呼ばれています。
ところが、彼らは元武士であったり、ほとんどが農業経験者ではなかったので、ハワイでの農作業には向かず、すぐに日本に帰ってきたり、ハワイの人と結婚して残ったりと、労働力となるには難しかったようです。
明治政府が正式に認めた「官約移民」
カラカウア王が移民調査を目的に世界一周の途中、1881年(明治14年)に日本を訪し、明治天皇に謁見しました。
日本に来た初の外国人元首です。
日本はハワイ州歌である「ハワイ・ポノイ」を演奏してカラカウア王を歓迎しました。
日本からハワイへの移民の要請の他に、天皇家の山階宮(ヤマシナノミヤ 後の東伏見宮依仁親王)にハワイ王朝のプリンセス・カイウラニとの婚約の申し出がありましたが、山階宮には許嫁(いいなづけ)がいたため縁談は丁寧にお断りしました。山階宮13歳、カイウラニ5歳の時の話です。
日本とハワイの政府間では「移民協約」にもとづいて、日本人をハワイのサトウキビ畑で働く労働者として3年契約で送るという取り決めが交わされ、1885年(明治18年)に明治政府が正式に認めた「官約移民」が開始、同年2月には900名ほどが到着します。
日本は幕末から続いていた農村を中心とした経済の行き詰まりは、身分を解放し仕事を求める人々であふれ、ハワイ王国が終わりを告げる1893年までに、政府間で約2万9千人の日本人が移住しました。
官約移民の多くは、広島、山口、熊本、福岡の農村出身者で、数年農地で働いて財を成したら帰国しようと考えていた「出稼ぎ労働者」でした。
契約期間を終え、予定通り帰国した人もいましたが、現実は極めて厳しく、そのままハワイの農地に居つかざるを得ない状況にとどまった人たちが多く、オアフ島ばかりでなく各島の砂糖農園に、だんだんとハワイ社会にとけ込み、日系人として根を張っていきます。
民間会社による「私約移民」
ハワイ王国が終わりを告げたと同時に「官約移民」は消滅し、次のハワイ共和国の時代には、民間会社による「私約移民」が行なわれました。
1894年(明治27年)から1899年(明治32年)の5年間に更に約5万7千人が移住し、とくに独身男性の増加が顕著でした。
自分の意志で行くという前提の「自由移民」
ハワイは米合衆国に併合された後は米国の法律が適用されます。
米国の法律では従来の移民は“奴隷”と同様にみなされてしまうことから、労働力として連れて来るのではなく、来たいなら来てもよいというニュアンス前提で、1900年(明治33年)から2007年(明治40年)は「自由移民」の時代となり、この間に約7万1千人が移住しました。
また、ハワイから米本土への再移住の数も増加しました。
ハワイから呼ばないと来られない「呼び寄せ移民」
アメリカ本土のカリフォルニアで移民の制限がひかれ、日本人からの移民は原則禁止とされることになりました。それは、ハワイにも適応され、1908年以降は、組織だった集団移民は終わりとなります。
唯一残された移民方法は「呼び寄せ移民」です。
移住先のハワイで落ち着いた日系人が、妻子、兄弟姉妹、従兄弟、甥姪などの親類縁者、そして未来の配偶者をハワイに呼び寄せたのです。
1908年から1924年(大正13年)は「呼寄せ移民」の時代となり、この間に更に約6万1千人が移住し、総計で22万人ほどの日本人がハワイに移民として渡ったことになります。
1920年(大正9年)には、ハワイ準州の人口の42.7%を日系人が占めるまでになりました。
砂糖農園で働く人口の47%が日系人です。
未来の配偶者を呼び寄せることは「写真花嫁(ピクチャーブライド)」と呼ばれ、写真で結婚相手を決めて婚姻し、海外へ移住した女性たちのことです。
会ったこともない異国に住む男性のもとに、たった1枚の写真を頼りに人生をささげることは、大変心細いことであったでしょう。その様子を映画化したものが『ピクチャーブライド』です。
格好が良い別人の写真を送ったり、若い頃の写真を送ったりと、実際に会ってみると、写真とはまるで別人ということも多かったようです。
1924年の移民全面禁止までに約2万人の『写真花嫁』がハワイに渡航しました。ということは「呼び寄せ移民時代」の移民の三分の一が『写真花嫁』ということになります。
「ピクチャーブライド」と「ホレホレ節」
日系移民の砂糖農園での過酷な労働と生活環境、労働ストライキによる増給など、ハワイでの日系人の苦労の歴史は語りつくせないほどあります。
映画『ピクチャーブライド』や農民の心をストレートに歌った「ホレホレ節」には当時の様子が現れています。
ハワイに行くと、何か親しみやすいものを感じるのは、日系人の歴史があったからこそでしょう。